西丸震哉の足跡
  • 1923年9月5日東京青山にて誕生(関東大震災発生混乱の中、5日目に生まれる)
    父方:西丸(佐々)は旧水戸藩士、助さんの子孫曾祖父、西丸帯刀は野口家からの養子(野口雨情の大伯父)、桜田門、坂下門の変の首謀者。母方:馬籠本陣の一人娘(島崎藤村は大伯父)
    小学生の頃から、昆虫採集、天体観測に興味をもち、中学生で本格登山を始める。八ヶ岳、木曽駒、北アルプスなど単独登山に励む。
  • 1945年 東京水産大学(現、東京海洋大学)製造学科(化学)、卒業。水大山岳部の創設者。
  • 1945年 軍隊に入隊。終戦。同年、岩手県水産試験場製造部長を経て、1947年、農林水産省食品総合研究所に入所。戦後、再び、登山、探検活動開始。
  • 1951年 八ヶ岳、赤岳北壁、初登攀。平が岳戦後初登頂など岩登りを中心とした先進的登山活動に取り組む。一方で、海外遠征が難しい時勢がら、国内での探検登山に没頭する。
  • 1950年頃から、尾瀬周辺を藪をこいで人跡未踏の湿原を探索発見。尾瀬岩塔盆地など命名多数。後半人生のヤブコギ山行スタイルが形成されていく。また、冬期は、未踏地帯の初滑降スキー。
  •     第一次越冬隊(1956年)に選ばれる。ペミカン、即席ラーメンの創作に携わるが、隊長と意見が合わず、不参加。
  • 1959年 11月から3ヶ月間かけて、日本山岳会の台湾脊梁山脈遠征隊長として、中央山脈縦走。
  • 1961年 11月インド南部を3ヶ月間、学術調査隊の隊長を務める。(ネール首相を表敬訪問)
  • 1965年 インド学術調査の車両提供の某自動車メーカーで秘書をしていた真美と結婚。以後、二人三脚の探検登山が始まる。同年8月、木崎湖畔クラブレイクサイド(白馬自然科学研究所)にて、蝶の標本つくりを指導。
  • 1973年 長野県小川村に山荘をたてる。ここで地元の農民、有志に農業、食糧問題について約3年半にわたって講義を持つ。(秋葉山塾)また、作曲、絵画にもいそしみ、フォレストワンダラーズ六重唱団を設立。油彩画夫婦二人展を毎年10年以上続けた。
  • 1968年 パプア・ニューギニア文明未接触食人種の味覚調査。後半、調査旅行にマミ合流。
  • 1980年 農林水産省食品総合研究所(栄養化学研究室、官能検査研究室)を自主退官。ほか、千葉大学、富山大学講師、日本学術会議・南極特別委員・同食糧部門幹事。日本極地研究会理事、日本熱帯医学協会顧問、日本山岳会役員を経て現在、食生態学研究所所長、日本旅行作家協会常任理事。
  • 1990年 長年の探検で磨かれた原始感覚と食生態学の専門分野からの警鐘を書いた「41歳寿命説」を出版、ベストセラーになる。
  • 1998年 白馬自然科学研究所の活動再開に際して、研究所長就任を了承。
  • 2002年 6月、腹部大動脈瘤、発見、手術。体力低下。山男廃業。
  • 2004年 西丸記念館の開設決定。
  • 2008年 5月、西丸記念館開設。
  • 2012年 5月24日、永眠